冬木さんの洞窟

2005-03-09

[]原風景&深く潜ること


響子さんの3月6日の記事( 私の原風景)にコメントをつけようとしたら、コメントとしてはあまりにも長くなってしまったので、自分の場所にもって来ました。


――コメント――


『白雪姫』の赤い血、、白い鳩……。

なるほど! 確かに、作品を拝読しているものにとっては、そのへんが響子さんの原点だというのは凄く納得できます。


ところで、響子さん以外にも子供の頃に白雪姫や『は生きている』を読んだ人はたくさんいると思いますが、その、たくさんいる人たちの中で、その読書体験が深く印象に残っている人と、別にそうでもない人とがいますよね。

それは、どんな形で読んだかにもよると思いますが(『白雪姫』でも幼児向けにひどく省略されちゃったものだと『血のように赤く』のセリフはないだろうとか、印象的な絵が付いてたら印象に残りやすいだろうとか)、やはり、その人が心の中に持っていた『何か』とそれが合致するかどうかなのでしょうね。

同じものを読んでも、その人の持つ趣味・志向・感性によって感じ方が違うから、響子さんには当時既にそれらのイメージに強く共感する下地があったのでしょう。


そういう『下地』は、どうやって形成されるのでしょうね。

当然、それまでの読書体験も、ものをいっているのでしょうが、それまでの読書で何を感じ取ってきたかというのも、その人の下地しだいでしょうから、更にその前にも、既に何らかの下地は出来ていると思うんです……。


そして、無意識の海に潜るということ。

私の場合、自分は潜らずに『ここ』にいて、無意識のほうが勝手に自分の中まで泡のように浮かび上ってくる、もわもわと滲み出て来るという感じみたいです。

だから、『潜って』いくことの苦しさは、あまり意識したことないです。

私の無意識って、あまりちゃんと接続が切れてなくて、常にダダ漏れなんでしょうか……(^_^;)


でも、無意識が指を通して紙(とか画面)の上に勝手に流れ出しているような時でも、私は別に憑依状態ではなく、自分はあくまで普段の自分のまま『ここ』にいるんです。

たぶん、そのために、自分ごと深く潜ってしまう響子さんのような、どっぷり幻想な文章には、あまりならないのです。

無意識の中に深く潜っていくという行為が、響子さんの幻想に深みをもたらしているのでしょうね。

だから、私は、響子さんの文章に惹かれるのでしょう。

tierintierin2005/03/10 23:42響子です。私が自力で読んだ初めての本が白雪姫なんですよ。保育園児だったので3~4歳ぐらいだったか、と。三つ子の魂、百まで。といいますが、その頃からはっきりと好き嫌いがありますし、個性があるんですよね。空想家で本好きで引っ込み思案でニコニコ間抜けな笑顔でぼう~としているのは保育園児だった頃と笑っちゃうほど変わらないですから。思えば不思議ですよね。物心つくまでにどうやって“下地”がつくられていったのか。うちの母は子守歌がわりに絵本(白雪姫とか氷の女王とか)を読んでいたそうですから、その影響かも。
長くなったので、無意識の海に潜る話は、自分の日記で書きます(汗)。

FannyFanny2011/10/02 16:34Thanks guys, I just about lost it looknig for this.

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2005-03-05

[]夢の旅


おひさしぶりです。

あまりにも久しぶりなので、またしても、はてなダイアリーの使い方を忘れてしまいました……(^_^;)


今日は、自分が子供の頃から心の中に抱いているあるイメージの話をしに来ました。

なんか幻想的な話題のような気がするので。


それは、あまりにも漠然としていてつかみ所が無く、言葉に出来ない感覚的なイメージなのですが、あえて言葉という型に押し込んでみると、『知らない男の人に連れられて、薄暗くて肌寒い寂しい夢の中をどこまでも旅している』というイメージです。

本当は、そんなはっきりした言葉で表せるようなものではなく、もっと漠然としたイメージなので、言葉にしたとたん、何かちょっと違ってしまうような気もするのですが、とにかく言葉にしないと説明できないので……。


これが、何か本で読んだとか絵で見たとかの出所があるイメージなのか、夢に見た光景なのか、単なる想像なのか、それとも生まれる前の記憶か何かなのか(笑)、定かではないのですが、とにかく、自分の中にずっと前からそのイメージが存在しているのです。


その夢(便宜上、『夢』と呼ぶことにします)のなかで、私は、どこか、薄暗い、肌寒い、夜の海辺のような寂しいところを、知らない男の人につれられて旅しているらしいんです。

そこは、たぶん、決して朝が来ず、日が昇ることがない、時の流れを知らない永遠の薄闇の国なのです。時間は無いけれど、もしも季節があるとしたら、たぶん、春です。まだ肌寒い、早春のイメージです。


暗い海は進行方向右手にあって、男の人は左手にいるようです。

男の人は、黒っぽい服を着ているような気もするし、黒い翼が生えていて空を飛んでいるような気もするし、姿が無いような気もします。

いずれにしても、私の目には姿がはっきり見えず、漠然と存在感だけが隣り合っている感じで、口もききません。


その人と、少し離れて歩いているような気もするし、手を引かれているような気もするし、抱えられて空を飛んでいるような気もします。

私のほうは、もし姿があるとしたら、たぶん小さな子供の姿なんですが、私も姿が無い、肉体が無い状態であるような気もします。


思い出せるのは、とにかく、漠然とした『雰囲気』だけで、男の人は誰なのか、私たちはなぜ旅をしているのか、どこに向かっているのかなど、具体的な事情は全く分かりません。


そんなわけで、あまりも漠然としていて、全く説明が出来ないし、それがどんな情景なのかもはっきりしないのですが、そのときの、ちょっと寂しいような、悲しいような、不安なような、でも懐かしいような気分と、その場の薄暗さは、ずっと前から、とても鮮明に心の底に沈んで、私の原風景のようなものの一つになっています。


『ずっと前から』というのがいつ頃からかも分からないのですが、小学校の高学年か中学校の頃、西条八十の『つくしんぼう』という詩を読んだ時に、(この詩は私のあの夢に少しだけ似てる)と思ったことを覚えているので、それより昔からなんだと思います。


西条八十の『つくしんぼう』という詩は、うろ覚えなのですが、『見知らぬ人』に負ぶわれて春の野山を越えた思い出を歌った詩です。

おんぶされているのだから、主人公は幼子だったのでしょう。

それは、『いずこの国かいつの日か』も分からない遠い思い出で、『見知らぬ人』は黒マントを着ていて、主人公は、その背中から眺めたつくしんぼうのことは断片的な光景として覚えているらしいのですが、なぜ旅をしていたか、その男は誰なのかといった事情は、全く説明されていません。

本当にあったことなのかも定かでない、あいまいな夢のような思い出なのです。


その、夢なのか現実の記憶なのか分からないあいまいさと、黒マントの見知らぬ男の人の存在感、春の季節感が、私のあの夢のイメージに通じるのです。


目が覚めているときに『夢』の中の事情をあえて想像してみると、もしかすると、あの『夢』の中で、あの暗い荒涼の海辺は、この世とあの世のあいだの境界世界で、幼子の姿の私はまだ生まれていない存在で、翼ある案内人に導かれてこれから生まれ出るためにこの世への旅をしているのかもしれないし、あるいは、既に死んで魂だけの存在になって、あの世へ旅している途中なのかもしれないと思います。


私は、この薄暗い夢の旅のイメージを、作品の中に、何度も反復して取り入れています。

前に、ここに掲載させてもらった『イルファーラン物語』の一節『砂漠の夢』のシーンにも、このイメージが部分的に取り入れられていました。

一緒にいるのは『知らない男の人』じゃないし、服装も黒っぽくないし、荒野は薄暗くないし、海辺じゃないし、時間感覚は麻痺してるけど一応は朝になれば日が昇るし……なので、ほんとうに、ごく部分的になのですが。

同作品の中には、他にも、もっと色濃くこのイメージを取り入れたシーンがあります。


皆さんにも、そういう、『心の中に大事にしまってあって何度でも書かずにはいられない自分の原風景みたいなイメージ』って、ありませんか?

もしあったら、披露してくれると嬉しいです。



[]長野まゆみ


以前、こちらで話題になったのをきっかけに、長年気になっていたのになぜかまだ一冊も読んでいなかった長野まゆみを読みました。

とりあえず、めぃさんに教えていただいた『上海少年』『銀木犀』『少年アリス』を。

思ったとおり、とっても好みでした。読んでみてよかったです。

この三冊の中では『少年アリス』が一番好みだったかな?

めぃさん、ありがとうございました。


ここでの話題が、ちょうど良いきっかけになって、読書の範囲が広がりました。

こういう交流って、いい刺激になりますね。

2004-11-24

[]詩人と長編書き


きんとさん

『歳を取ったおかげで長いまとまった文章が書けるようになった』『両方を得るほど才能はない』というのは、私も同じです!

私も、主に詩を書いていた頃は、自分にはまとまった小説は書けないと思い込んでいました。

確かに当時は書けなかったと思いますが、それだけでなく、その頃は、自分にはそういう才能・適性が無く、一生、長編をきちんと仕上げられることはないだろうと思い込んでいたのです。

が、今にして思えば、そんなことはありませんでした。

ただ、当時はまだ、長編を書きあがる素地・底力が足りなかっただけなのですね。


詩は、とりあえず感性だけで書けますが、長い作品を最後まで書き上げるには、ある程度の創作技法上の腕力(構成力とか文章力とか……)と精神的な基礎体力(根気とか計画性とか長期にわたる情緒の安定とか……)が必要であることが多いと思います。


もちろん、書くもののタイプや、その人の性格や才能のタイプにもよるので一概には言えないし、また、その、長編のための素地を得られる時期かいつ頃かも、その人の成長の速度によって違い、大変早熟な人や天才的な才能を持つ人は最初からきちんと構成された長編が書ける場合もあるでしょうが、普通、きちんと構成された長編を大きな破綻なく完結させることが出来るのは、早い人でも高校生(=十代後半)くらいからじゃないでしょうか?

中には、小中学生で長編を完結させられる人もいるかもしれませんが、それは、よほど早熟なのか、生まれついての天才であるかのどちらかでしょう。

(ちなみに、私の場合、人一倍オクテなので、長編が書けるようになったのは30近くなってからです。)


よく、『詩人は早死にするが小説家は長生きする』と言いますが、これは、詩はいつ死んでもおかしくないようなギリギリの不安定で刹那的な精神状態からこそ生まれやすいもので、小説、特に長編小説は、精神的にも肉体的にも体力と持久力があって一つのことにじっくり取り組める安定した状態でないと完成させ難いものだからではないかと思います。

詩人だから早死にして小説家だから長生きするのではなく、精神的にも肉体的にも長生き出来るような状態の人には長編小説が書けて、早死にするような状態の人には詩が書けるということではないかと……。


詩を書くような精神状態で長編小説を書く人も、いないことはないけれど、それは、命を削るような厳しい作業のではないかと思います。

(失礼ながら、響子さんは、わりとそういうタイプ寄りの書き手のような気がします。そういうギリギリの危ういところから『ロマンチック』を生み出す人なのではないかと。響子さんは、ものを書くとき、霊媒のように、巫女のように、深く自分の中に潜りこんで、そこから何か美しい、光るもの(=ロマンチック)を拾い上げてくる――そんな印象があります。でも、どうぞ、あんまり深く潜りすぎてうっかり命を削らないで下さいね(^_^;))


そして、詩を書く才能と長編を書く才能は決して両立しないものではなく、大人になっても両方が書ける人はもちろんたくさんいます。

老齢の詩人がたいへんみずみずしい詩を書いていることもあれば、優れた大長編と優れた詩を同時期に両方書いている人もいるでしょう。


でも、中には、長編が書けるような安定と体力を手に入れたとき、詩を書くための感性を失ってしまう人もいるでしょう。

全部は失わなくても、半分くらい失ってしまうこともあるでしょう。

私の場合、長編を書く精神的体力を手に入れた時、詩を書くための『危うさ』を半分くらい棄てたような気がします。

天才ならそんなことはないのでしょうが、いかんせん凡人で凡才なので……(^_^;)


でも、詩を書くための危うさを大人になっても持ち続けている永遠の『詩人』である人は、現実社会では、さぞかし生き辛いでしょうね。

だから、詩人は早死にするといわれるのでしょう。


そういうわけで、私は、小説を書き始めてから、あまり詩を書かなくなりました。

脳みその中の、『詩』用の部分より『小説』用の部分のほうが活性化しているらしいです。


もっとも、私の場合、詩も、もともと、自分の心情や幻想をストレートに描いたものよりも、架空の主人公を架空の状況に置いてその心情を表現するという、わりと虚構性の高いストーリー性のある詩が多かったので、自分の中に生まれた物語を詩という形式で書くか小説という形式で書くかの違いのような気もします。今は、生まれてくる物語が小説の形に変換されるようになったから詩にならなくなったらしいです。


なんだか、まとまりがない上に、あんまり幻想と関係ない話でごめんなさい。

それと、メンバーの皆様は分かってくださると思うのですが、念のため、私は別に小説の方が詩より技術的に高度であるとか文学として上等であるとか、あるいはその逆であるとかいうことを言っているのではありませんので、ご理解ください。

ただ、きんとさんが仰るように、それぞれ脳みその使う部分が違うということが言いたかっただけですので……。

2004-11-17

[]『幻想』に適した形式


砂漠の夢』にコメントくださった瀬戸見さん有沢さんきんとさん、ありがとうございます。

書いてるものと好きなものが違うのは私だけじゃないのですね。ちょっと安心したかもです。


自分が読みたいようなものを自分で作り出したくて書いてるはずなのに、ヘンですね~(^_^;)

技術的に下手で理想が実現できないというものありますが、それだけじゃなく、私にとって、『幻想』は自分で描き出すものではなく、他人に開陳してもらって楽しむものらしいです。

というわけで、皆様が提示してくださる幻想の数々をとても楽しみにしています。


ところで、有沢さんのお話を伺ったり、響子さんが『お題』で詩を提示しているのを見ていて思ったのですが、幻想を描くのに適した表現形式ってあるんじゃないかなと。


有沢さんが仰る『酔え酔え酔え~!』っていうタイプのもの、私、大好きなんですが(『よ~し、いいぞ~、さあ、思いっきり酔ってやるぞ~!!』という意気込みで迎え撃ちますから!)、そういう、『幻想の泉の中に自分からどぼんと浸かってしまう』タイプのものは、短編ならいいけど、それで大長編って、たぶん、ちょっと辛いですよね。


濃密な幻想の泉に延々と深く浸かりっぱなしでいることは、それがどんなに心地よい泉でも、普通人にはちょっと疲れる、湯あたりしちゃうことなのではないかと。(あれ? いつの間にか『幻想の温泉』に……?(^_^;))


そういうタイプの、全体にどっぷり幻想的な作品は、断章、掌編、短編、あるいは詩、散文詩などになりやすく、長編・大長編にはなりにくいのではないかという気がします。

長編で幻想という場合は、全編どっぷり濃ゆい幻想シーンの連続ではなく、全体は比較的あっさりしてたり、輪郭のはっきりした具体的なストーリーがあったりして、そんな中で要所要所だけ濃厚な幻想シーンというのが多いのではないでしょうか。


一口サイズのオードブルやデザートなら、ものすごく濃厚なのもいいけど、一食分の献立のすべてがコテコテの味付けだと辛くて、やっぱり、普通の白いご飯とかシンプルなパンでとりあえずお腹を膨らませたいですよね。


最初から最後までどっぷりディープな幻想尽くしの大長編というものが、絶対にありえないとは言いませんが、それを実現するには、書く方にも特別な資質と根性が要るし、読む方にも特別な適性と集中力が要りそうで、かなり読み手を選ぶ作品になるだろうと思います。


私の場合も、原稿用紙2000枚相当の大長編である『イルファーラン物語』は非幻想ですが、短編ならわりと幻想的なものも書いています。

今後も、もし、すごく幻想的なものを書くとしたら、それは、短編か、あるいは詩になるだろうと思います。


そういえば、私の場合、もともと、小説を書き始めるより前に、中学生の頃から長いこと詩を書いていたのです。

実は、たぶん、詩のほうがホームグラウンドなのです。

何しろ、昔は、詩が自分にとっては標準的な表現形式で、ストーリー性のあるものでも何でも、まずは詩の形で書くことしか思いつかなかったので、しまいにはストーリーもののSFまで散文詩の形で書こうとして挫折していたほどです(^_^;)


今にして思えば、ストーリーSFを詩の形式で書こうとするなんて、ずいぶん野心的な試みだと思うのですが、当時は、何しろ子供だったので、全くそういう認識は無く、自分にとってはそれが普通で自然なことだったのです(……スキルが伴わなかったので挫折しましたが(^_^;))。


で、幻想的なものは、ずっと、詩の形で書いていて、詩の枠には収まらない散文的な要素が膨らみすぎた時に、それなら……と、小説という形式にたどり着いたのです。

そんなわけで、私の小説は、もともと、詩の枠からはみ出した散文的な要素の塊なので、全編どっぷり幻想にはならないんだろうなと思います。


といいつつ、いつか、全編どっぷり幻想なものも書きたいなと憧れてはいて、特に、ここに参加してから、その憧れはますます募りつつあります。

有沢さんの『10のお題』からも創作意欲をかきたてられてます。

前々から温めていた断片的なネタが、10のお題のおかげで、頭の中で少しづつ形になりつつあったりします。

遅筆なので何年も後になるかもしれませんが、いつか書いて見たいと思っています。

2004-11-12

[]幻想的作品のための10のお題より『砂漠の夢』


 それは、半ば夢の中を旅しているような日々だった。

 くる日もくる日も、乾いた砂をさらさらいわせて風が吹き抜けるばかりの剥き出しの大地を、里菜とアルファードは、ただふたり、黙って馬を進めた。

 静かな旅の中で、ただ、ときおりアルファードが、ぽつりぽつりと、この荒野にまつわる伝説などを教えてくれた。

 伝説によると、かつてここは、一年のほとんどを雪と氷に閉ざされた凍土の平原だったが、短い夏には花々が一斉に咲き競い、羽虫たちが飛び交い、獣たちが駆け巡ったと言う。

だが、魔王が凍土のさいはてに城を構えて以来、魔王の憎しみが邪悪な熱となって雪と氷を溶かし、雨も雪も一切降らなくなって乾いた風だけが吹き続け、それまでは寒さのためにいつまでも蒸発しなかった湿地の水でさえやがて干上がり、草も苔も枯れ、鳥も獣も死に絶えて、いつしかこんな岩砂漠になってしまったのだそうだ。

 そんな、生命の気配のない荒野で、あるとき、ふたりは、遠い地平線を、巨大な角を持つ大鹿の群れが幻のように駆け抜けていくのを見た。その時、ほんの一瞬だけ、行く手の大地が緑の苔と小さな花々で覆われているように見えたが、その後、いくら馬を進めても、それまでと同じ乾いた荒れ地がどこまでも続いているばかりだった。

 また、あるときは、明け方のまどろみの中で、何頭もの狼たちが遠吠えを交わすのを聞いたが、翌朝、念のために探してみても、狼の足跡を見つけることはなかった。

 野営の準備をしている時に、ふと、かたわらの地面に目を落すと、そこに小さな灰色の兎がいて、鼻をぴくぴくさせてこちらを見上げていたこともあった。けれど目をしばたたいてもう一度見直すと、兎は跡形もなく消え失せていた。

「大地が、過ぎた日の夢を見ているんだ」と、アルファードは言った。「君がここに足を踏み入れたことで、大地の奥深くで、遠い記憶が動き始めたんだ」

 そんなアルファードの言葉に、里菜は何も問い返さず、素直に頷くことができた。


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以上、ごめんなさい、書き下ろしじゃなく有りモノ利用です。

サイト連載中の拙作『『イルファーラン物語』の、まだ公開していない第四章『荒野の幻影』からの、一部抜粋です。

きんとさんの同様、ここも、砂砂漠ではなく砂礫砂漠です。

で、こちらは、実は北方の高緯度地帯の、もとは凍土だった土地です。


どうも私は、自分が好きなものと自分で書いているものに微妙なギャップがあるようで、本当は幻想的なものが大好きなのに、自分が書いているものは、一応異世界ファンタジーであるわりに、なぜか非常に幻想度が低いのです。

神秘や幻想より、生活感のある日常や月並みな人間関係がメインで、魔法もドラゴンも存在はするけれど、それらはその世界ではぜんぜん神秘ではなく、日常の生活技術や大型野生動物に過ぎず、ドラゴン退治は害獣退治に過ぎません。


別に自分の書いているものが嫌いなタイプだというわけではなく、『好きなものの一つ』ではあるのですが、『一番好きなもの』ではないようです。


そんな中でも、時々、やっぱり、自分の本来の趣味である幻想的なシーンはところどころに挿入されていて、自分では、そういう部分を書くときには、ひときわ楽しんでいるのですが、でも、やっぱり、こうして改めて抜き出してここに持ってくると、さほど幻想的でもないかも……(^_^;)

きんときんと2004/11/16 18:20『イルファーラン』にこんな乾いた風景も出てくるのですね~。読むのが楽しみです。
私も自分の書くものは幻想度が低いなーとつくづく思います。冬木さんと同じく、書きたいものが「人間」だからなんでしょうね。
それに神秘や幻想も好きなんだけど、なぜか「それは如何にして?」なんて追求に走ってしまって、どんどん幻想から離れてしまうのですよ。性格的に地に足がついてないと落ち着かないからかな。星座の属性は「地の宮」ですが。。。(^o^;

冬木洋子冬木洋子2004/11/17 08:51コメントありがとうございます!『如何にして』を追求すると幻想から離れてしまう気持ち、分かります!他人が書いたものを読む時は理屈ぬきで幻想に浸れても、いざ自分で書こうとすると『そういえば、如何にして?』と、中途半端に理性が頭を持ち上げてしまい、幻想的になりきれないんでよすね。そこをとことん理性的に追求すれば、それはそれで、理路整然とした魔法体系や緻密なSF的設定を生み出せたりするのかもしれませんが、私の場合、如何せん中途半端なので何の役にも立ちません(^^ゞところで私は乙女座ですが、乙女座って『地の宮』ですか?あと血液型がO型なんですけど。よくO型は現実的だっていいますよね。

きんときんと2004/11/17 18:36おお、冬木さんも乙女座ですか。私もです(^_^)「地の宮」は牡牛座、乙女座、山羊座です。やはり地に足がついていないと落ち着かない人々のグループですねf(^o^;

EllyannaEllyanna2011/10/01 18:43You've really captured all the essenitlas in this subject area, haven't you?

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