ゆめのさんの屋根裏部屋

2005-03-23

[]どこまでもつづく階段

潜伏しているあいだに、冬木さんの夢の旅、響子さんの原風景、有沢さんのイメージ、いずれも興味深く拝見しました。

それじゃあ自分もと考えてみたのですが、私は皆さんのように深く刻印された幻想的な情景や、繰り返しあらわれるワンシーンなどの持ち合わせがなく、かなりがっかり(汗。

私が繰り返し使うモチーフは、中高生時代の読書体験と絡み合っているので、わかるひとにはすぐに作品名が浮かぶのではないかと思われます。

でも、ひとつだけ、これはもしかしたら、と思えるものがありました。

それは「塔の中をぐるぐると登っていく階段」です。

これは、私の最初の記憶として残されている強烈な迷子体験と関係あるのではないかと思われます。


それは、私が三歳くらい、集合住宅にひっこしてしばらくたった時だと思うのですが、二階の自宅に帰るのに階段の中で迷子になりまして、なんでこんなところで迷うかよとあとで何度も悔しかったのですが、三歳の時の私はまだ足が短くて、階段をのぼるのにかなり努力をしなければならなかったらしく、そのうちにどれくらい登ったかがわからなくなってしまったんですね。それで、自宅がどこにあるのかまったくわからない状態に陥ってしまった。


階段には算用数字でそこが何階なのかは表示されていたし、もちろん、表札も出ていたのですが、まだ字の読めない私にはわからない。いや、それ以前に、自分の名字がなんであるかもまだ知らなかったかもしれません。


親は気づいてなくて、たったひとりで、とっても心細かったのですが、顔に出ないせいですれ違う大人にはわかってもらえずに、しかも助けを求めればいいのにそれもしない意地っ張りで、おそらく自分ちのすぐそばで心の中で泣きながら階段をのぼったり降りたりしていた、とそういう記憶なのですが。


これ、いまは笑いがとれる昔話として定着してますが、かなりトラウマになってるらしいんですよね。

幼稚園か小学校の時に、多分東映動画の『長靴をはいた猫』だったと思うのですが、その映画を見た後、しばらく夜中にうなされてときに夢を見ながら歩きまわったりもしたらしいです。クライマックスの塔の中の階段をぐるぐるとのぼりながら戦うシーンに、迷子のトラウマを強く刺激されたせいだったのではないかと思われます。


というわけで、私は塔の階段というものに異様な執着心を持っています。いままであんまり話の中に出したことはないのですが、いつもどこかに使えないものかと隙を狙っているような所があります。

しかし、これまでの経過からいっても幻想的なイメージは皆無なので、ロマンな雰囲気にはなりそうもない(苦笑。だから、なかなか使えないんですよね。


これで終わるのもなんなので(笑)もう少しロマンな方向のものというと、小学生の頃にカラー挿絵つきの本で読んだヤマトタケルノミコトの話でしょうか。

女装して敵陣に入り込んだり、八岐大蛇を裂いて草薙の剣がでてきたり、最後は白い鳥になって飛んでいったりする、英雄の話。

といっても、私はこの伝説を読んで英雄ってかっこいいと思ったことはなく、女装萌えももちろんなくて、相手をだますなんてなんて悪いヤツだ、とか、女の人を犠牲にして(オトタチバナヒメのこと)生きのびるなんてずるっこいとか、そういうことばかりを思っていたのですが、ラストの白い鳥のシーンだけはなんとなく寂しい気分になってそこのところだけ挿絵を何度も見直していたのを覚えてます。

冬木洋子冬木洋子2005/03/25 14:18搭の階段! それは、ファンタジーにはすごく使えそうなイメージですね。見にいった映画は、『長靴をはいた猫 八十日間世界一周』でしょうか。私も子供の頃、映画館で見ましたよ。一瞬、(どうしてあれでうなされるの?)と思いましたが、確かに搭の階段が出てきたような気が。そして、ゆめのさんが3歳の時のことを、起こった出来事だけじゃなくそのときの気持ちまでよく覚えてらっしゃるのでびっくりです。

ゆめのゆめの2005/03/26 09:56冬木さん、コメントありがとうございます。塔の階段、冬木さんの夢みたいに設定に融通が利かなくて、応用範囲が狭いのがあんまり使えない原因でしょうか。『長靴をはいた猫』はじつは一回しか見たことがないんですよ。だから、タイトルとそのシーンだけが印象に残っていて、話自体はあんまり覚えていないんです。三歳の時の記憶といっても、覚えているのはそれだけ、なんですよ(苦笑。ほかのことがすべて曖昧になってしまったので、この記憶すらときどき夢だったような気がするくらいです。

2004-10-31

[]異世界と外国

有沢さんが書かれていた「いまの異世界は昔は外国だった」説について。

以前冬木さんとお話ししていたときに出た、「昔の少女マンガには外国がよくでてきたけど、外国への神秘感が薄れるに従ってその役割を異世界が果たすようになってきたのでは」という話を思い出しました。

私も最初に「異世界」を意識して読んだ話はなんだったのだろうと考えてみたんですけど、思い浮かばないです。ファンタジーをそうと意識して読んだのは中山星香が最初だったと記憶していますが、「グイン・サーガ」を読んだのはそれよりも前だったし(「グイン・サーガ」は私にとっては最初からいまに至るまで、ファンタジーとは意識されてなかったりする)。

ということは、私にとっては異世界であることよりも、神秘であることの方がインパクトがあったということかも。

考えてみると、私の外国ミステリの読み方って、神秘のない異世界ものの読み方とたいして変わらない気がするのですよねー。こういうことを考え出すと止まらなくなってくるなあ。

May-seavaMay-seava2004/11/02 08:33よろしくお願いします(⌒▽⌒)

2004-07-05

[]異世界である理由

異世界へ移動するタイプのファンタジーについて、すこしうろうろと考えてみました。

人間にとって、もっとも身近でもっとも行くことができない異世界というのは、あの世なのではないかと思います。

人はそのうち必ずそこへ行くのだが、現実にはけしてその世界のことを知ることはできない。そのためには死という儀礼を経なければならなくて、それはいったん通ったら引き返すことのできない道であるから。

そのため、人はあの世についていろいろと想像をめぐらせて、その後への恐怖を和らげるために宗教や神話を作ったのかもしれない。

で、なにを言いたいかというと、ファンタジーの異界は、死後の世界のヴァリエーションなのではないかということ。

異世界へと移動する際に登場人物が通る装置は、ある意味で死に通じるものがあるような気がするのです。

実際、死にかけた人物が異世界に行って戻ってくる、というパターンはよくある気がするし、夢落ち、というのも睡眠が毎夜訪れる小さな死であるという説を考えるとうなずける。

異世界へ移動する登場人物が、ほとんど自分の世界に戻ってくるのは、生を肯定する立場からすると当然となるのだろうと思う。行ったきりとはすなわち、死んだままの状態であることを意味するのだから。

最近ではそこまで深刻なことを考えて異世界へ行く主人公たちはほとんどいないと言ってもいいけれど、異界への移動にどれだけの切実さ、深刻さがあるかは、その異世界往還物語にとってのそこが異世界であることの重要度を測るバロメーターとなるのではないかと思う。

たとえば、真実死ぬのとおなじくらい覚悟をして異界へ行く場合、異世界は登場人物にとってはっきりと別の世界だ。

しかし、なんの気負いもなく思い立ったときに気軽にいけて、また戻ってこられるような異世界は、異世界である必然性の薄い、たとえば外国や極端に言えば隣の町であっても交換可能な存在なのではないか。

それがいけない、と言うわけではもちろんないし、そういった話で面白いものもたくさんある。それに隣の町へと移動する体験からファンタジーを書くことももちろんできると思うけれど。

ただ、私はとくにそういうシリアス系の話が好きなので、その理由はなんだろうと考えたところ、なんとなくこんなところにたどりついたわけです。

たぶん、異界への移動=死ということを無意識にでも踏まえた作品には、死生観がきちんと描かれているからではないかとも思います。

なんだか、わけがわからなくなってきましたが、とりあえず締めくくりは「異世界召喚ファンタジーは臨死体験に似ている」ような気がする、ってことかな(^_^;)

臨死体験そのものを扱ったコニー・ウィリス『航路』への、SF畑のひとと異世界往還を読み慣れたファンタジー畑のひとびとの反応の違いは、こういったところから来ているのかもしれない。

2004-06-17

[]霧

霧で印象に残っているのは『フィオナの海』という映画です。

少し前のスコットランドが舞台だったかな。えーと、あらすじを書きかけたのですがいきなり用事ができたので、つづきはのちほど。すみませぬ。